青城SS | ナノ
「送る」

ぶっきらぼうに響いた音が、肩を叩くようにして私を呼び止めた。

「歩きなんだろ。送る」

月のない夜の日の、バイト終わり。振り向いた視線の先。私よりも先に職場から出て行ったはずの岩泉が、鼻先をかきながら、誰もいない右側を向いて立っていた。

「えっと、あー。もしかして、自転車のサドルが無くなった話、聞こえてた?」

――今朝さ、アパートの駐輪場に停めてた自転車のサドルが消えてたんだよね。それはもう、跡形もなく。きれいさっぱりと。
――なにそれヤバ。自転車パクられた方がいっそ清々しいじゃんね。

そんな話を休憩時間にしていた。確かその時岩泉が更衣室から出てきて、挨拶をしたのを覚えている。
なんだろう。すごく恥ずかしいのと、それと、初めて見る類いの岩泉の眼差しに、心臓が掴まれたみたいに胸が苦しくなった。


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「昨日の夜、酔っぱらいが外で騒いでてさ。たぶんその人たちが犯人だと思うんだよね。悪質な悪戯だよきっと」
「へぇ」

岩泉の「送る」という言葉に、私は曖昧に笑うことしかできなかった。もしかしたら上手く笑うことすらできていなかったかもしれない。だって岩泉とはバイト仲間と一緒に“みんなで話す”程度の間柄で、それ以外は業務連絡くらいしか会話をしたことがない。それに異性に送ってもらうなんて経験したことがない。それなのに「送る」なんて言ってきたのは、仲がいいとは言い難い岩泉。
え、なんで? そう困惑していると、「帰り道どっちだ」なんて眼光鋭く聞かれて、更に私はなにも言えなくなり、「あっち」と素直に帰り道を指差してしまった。

そんな岩泉との帰り道はなんとも言えない空気が漂っている。ベラベラと消えたサドルについて熱弁する私。極端に口数の少ない岩泉。
いや、気まずいわ! なんて言えるわけもなく、私は「あのサドル、あんまりお尻が痛くならなくて優秀だったのに」と、普段考えたこともない消えたサドルの座り心地なんかを岩泉に説明していた。本当になにを言っているのかなと自分でも思う。けれど 「へぇ、そうか」なんて真面目に返してくる岩泉もどうかしている。

「サドル単品っていくらくらいで買えるのかな」
「さあ、……知らねぇ」
「ね、私も知らない。サドルってどの自転車でも共通に使えるのかな」
「どう、なんだべな……」

口を開けばサドルサドルサドル。けれど頭の中では、岩泉について考えていた。
岩泉って、勤務態度は真面目だし、面倒見がいいよね。なんなら私が何かトラブった時もいち早く気づいてフォローしてくれる。そんな人。というかよく考えると、岩泉に助けられた場面、結構あるよなぁ。でもそれって私に限られた話じゃない。「ありがとう岩泉、助かった」なんてセリフ、あちこちから聞こえてきている。

わー、あっぶない。一瞬岩泉って私のこと好きなの? なんて勘違いするところだった。危ない危ない。そうやって反省していると、私の住むアパートの外壁が見えてきて、「それじゃあ、この辺で。ありがとう」とお礼を伝えようかと考えていると、ぽつぽつと水滴が肌の上を跳ねた。

「あれ、雨?」

雨に気づいた次の瞬間から、あれよあれよという間に強くなる雨足。私は咄嗟に「こっち」と岩泉の腕を引いてアパートまで走った。
それはたった数分の出来事。そのたった数分雨に打たれただけで、全身がずぶ濡れになった。

「あーと。岩泉、平気?」

アパートの軒下に来て、私はそんな言葉を口にした。なにをもって平気だと定義付けるのか。命に別状はない。怪我もない。しかしながらずぶ濡れである。自分自身でなに言ってんだよと、突っ込んでしまった。

「タオル……」

タオル持ってこようか、と聞こうと思ったけれど、タオル一枚でどうこうできるとは到底思えなかった。

「ええと、……部屋、あがっていく?」
「ハァ?」

全力。全力の「ハァ?」である。顔を歪めて心臓が揺れるほどの低音に、肩がはねあがった。

「いや、……タオル貸しても、どうにもならないっていうか。送ってもらってこの結果は……なんというか」

岩泉はなにも言わなかった。ただ物凄く恐い顔をして私を見据えているだけ。

「傘……、貸そうか」

岩泉の顔が怖すぎて、思いっきり、勢いよく顔ごと目をそらしてしまう。その行動に腹を立てのか、岩泉は無遠慮に強く舌打ちをした。

「ミョウジ。お前一人暮らしなんじゃねぇのか」
「あ、うん。そうだけど……」
「何本も傘持ってんのかよ」
「……持ってない、けど。この辺コンビニ遠いし、スーパーあるけど、確か、もう閉まってるし」
「明日の朝雨降ってたらどうすんだよ」
「明日? 雨……。どう、……しましょうか」

ザーザーと激しく地面を叩く雨が、私の中に生まれた焦燥感を煽る。

「誰でも簡単に部屋あげんのかよ」
「誰でもって、そういうわけじゃ」
「バイトのやつだったら誰でも泊めんのか」
「バイトの人、だったら……」

バイトの仲がいい人だったら、異性であっても、迷わず部屋にあげる、と思う。だって友達だし。けれどそれを言葉にすることはできなかった。なぜなら岩泉がそれを許さないような怒りを隠すことなく、私に向けているから。

「ねぇわ」

ため息と一緒に、岩泉はそんな言葉を吐き出した。その音と視線は雄弁に「幻滅した」と語っている。
ちょっと待って。ちょっと待ってくれ。それはあまりに勝手じゃない? だって、岩泉だって。

「岩泉だって、誰でも家まで送るんでしょ?」
「あ? んなわけねーだろ」
「んなわけあるじゃん」

現に世間話なんかしたことない私を送ってるじゃん。
私を睨み付ける岩泉を精一杯睨み返す。そうやってしばらく視線を交えていると、「クソ」そう低く唸った岩泉が乱暴に頭をかき混ぜた。

「傘、借りていいか」
「……いいよ」
「明日も雨降ってたら朝、届けに来る」

明日も雨降ってたら。その言葉の意味がわからなくて、頭の中で反芻させていると「つーか」となげやりに口を動かした岩泉。

「降ってなくても、返しにくる」

なんで、そう聞こうと思ったら、それより早く岩泉が言った。

「俺は気のない女を送ったりしねぇし、好きでもない女の行動に腹なんか立てねぇ」

あれ。なんかこれって、告白みたい。

「返事、そんときくれ」

返事。返事? なんの? なんの返事? ぽかんと岩泉の顔を凝視していると、「なんだよ」と私を送ると言った時のように、ぶっきらぼうに私を睨んだ。顔を赤くさせて、まっすぐに私を見据える瞳が雨粒みたいに、小さく光って見えた。

「やっぱ傘いらねぇわ。今更だし。じゃあな」

再び雨の中へ身を投じようとしている岩泉を、追いかけられずにはいられなかった。
湿った、肌と肌。さっきも握ったはずの岩泉の手首が、やけに分厚く感じられて、なんでか雨音みたいに心臓が軽やかに跳ねた。

「な、なんで、……その、どこが」

私のどこが好きなの。しどろもどろに、そんな酷い質問をしかけて、口をつぐんだ。今、こんなことを聞くべきじゃない。
岩泉は息を飲んだように見える。けれど「別に」と雑に思える言葉は穏やかな口調で発せられ、私は引き込まれるように岩泉の息づかいを聞いていた。

「知らね。気付いたらそうだったんだよ」
「そ、そっか……」
「早く部屋入れ。風邪引くぞ」

岩泉の腕を離す。雨の音に、吸い込まれるようにして歩きだした岩泉の腕を、衝動的に再び握っていた。

「あ、あのさ!」

気付けば全身が熱くなっていた。気付けば鼓動が強く胸を押し上げていた。気付いたら、そう。気付いたら。

「じ、自転車! ……見ていく?」
「はっ、なんでだよ」

岩泉の笑った顔に、せつなくなるくらい胸がときめいて、なぜだか漠然とその顔を、好きだと思った。

初デートはサドルを買いに行った。

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